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2015年10月31日土曜日

Arab as it is (素顔のアラブ) 22

今回はNo.17の続き、2006年のレバノンです。第二次レバノン戦争では、特に南部で大きな被害があったのですが、その地域には検問所があり、軍の許可がなければ入れません。許可を得るには、申請してからかなりの時間がかかるため、どのようにしてその地域に入ろうかと考えていたところ、宿泊客がほとんどいない滞在ホテルのレストランで2人のフランス人に出会い、その内の1人がディマイナー(爆弾処理者)としてレバノンに滞在していたので、同行させてくれることになりました。アラブでの私の旅は、常に、現地に入ってからどのように動くかを計画するため、その時も、目的地へ向かう手段がすぐに見つかったことはラッキーでした。数日後、南部へと向かいます。


                          Beirut, LEBANON
ホテルを出発し、ベイルート南部で最初に見た被害現場。ハイウェイが破壊されていて、イスラエル軍が交通のアクセスを遮断するために爆撃したことがよく分かる。


                   on the highway from Beirut to the south, LEBANON
レバノン南部へ向かうハイウェイのど真ん中に、爆撃による大きな穴があった。ベイルートから南部への道では多くの被爆跡を発見したが、逆方向ではほとんどダメージを見ることがなかった。武器や援軍を運ばせないように意図していたふしがある。


                           south LEBANON
レバノン南部に入ると、墓地で不発弾を探す作業が始まるところだった。ラマダーン(断食月)が始まる直前だったので、墓地での作業が重点的に行われていたのだが、日本でのお盆時期のように、ラマダーン中に墓参する人が多いという。見物するには作業地点から30m以上離れろとの指示があり、万が一の事故に備え、名前・国籍・連絡先・血液型等を記入させられた。


                           south LEBANON
車で走っていると、突然ある畑の前で止まり、この辺りが不発弾の探索をしている区域なので、少し作業を行うといわれ、私も手伝うことにした。僅か数分後、私は写真中央に写っているクラスターの不発弾(アメリカ製BLU63)を見つけた。このタイプの不発弾による事故は、戦後のたった1ヶ月間に104件起こった。一番厄介な場所はバナナ畑だと教わったが、理由は、バナナリーフに乗っかったままの不発弾に落下する危険性があるためである。


                           south LEBANON
レバノン南部では、このように広大な農地が広がり、戦争がなければ、のどかな美しい風景である。広い土地で不発弾を見つけるには、大変な根気と莫大な費用が必要であることを想像できた。結果、この戦争による不発弾処理に3年も費やしたそうだ。国連の不発弾処理機関MACCSLによる発表だと、328地域の778箇所にクラスター爆弾が投下されたことが確認されている。そして投下された数は400万個で、その内、不発弾は100万個であると推測された。


                           south LEBANON
これもレバノン南部での写真だが、酷い場所では、一帯が爆撃によりことごとく破壊されていた。

このレバノン戦争の数年後、「ダヒーヤ・ドクトリン」というイスラエル軍の作戦がウィキリークスにより暴露された。ダヒーヤとは、ベイルートの地区名で、イスラエルへの抵抗組織であるヒズブッラーの本部が存在する。どのような作戦かというと、イスラエルへの攻撃を行う者がいる場合、その者達の周りに一般市民が存在しようが徹底的に反撃し、イスラエルに敵対すればこのような目に遭うのだということをすべての住民に知らしめることであった。その後数回にわたって行われた、パレスチナ・ガザ地区への攻撃も同様な手口であったため、病院であろうが国連施設であろうが見境なしに砲弾を浴びせ、多くの死傷者を出した。ただ近代において、この攻撃方法はイスラエルによるものが初めてではなく、最初に行われたのは、第二次世界大戦中のアメリカによる日本への空襲である。