Arab as it is (素顔のアラブ) 3
私が海外生活をおくっていた国は小国だったため現地に日本大使館はなく、在ケニア日本大使館が管轄していました。現地在住の日本人が私一人だった時期もあり、私は大使館と情報交換等で時々連絡を取り合っていて、大使館の担当書記官からたまにはナイロビへ来て下さいよといわれていました。そんなわけで、初めてのアラブ旅行の帰路、大使館に立ち寄ろうと予定していたのですが、日時を連絡していなかったため、在チュニジア大使館から連絡を入れてもらおうとその大使館を訪れました。そこで初めて会ったのが井ノ上正盛さんというまだ20歳代後半の若い書記官でした。彼は外務省へ入省後、3年間シリアでアラビア語を学び、シリアをこよなく愛していた人で、私が撮影旅行中だと分かると、シリアでの楽しかった生活を思い出したかのように目を細めて、「シリアはいい所ですよ。是非、行って下さい。」と勧めてくれました。旅行から住んでいた国へ戻った後も、私の個人的な用件で彼と連絡を取り合っていたのですが、翌年、彼の勧め通り、チュニジア経由でシリア、ヨルダンへ旅立ち、チュニスで大使館へ連絡したところ、彼が急にヨルダン勤務になったと聞かされました。その時の目的地の一つがヨルダンだったので、アンマンに到着後、すぐ彼に電話すると、1週間後にイラクへ行くことになり、私に会いたいが忙しくて時間がないこと、また家族は帰国させようと考えていること等を話してくれました。それは2002年の秋でしたから、まだイラク戦争が始まる前でしたが、とにかく身体だけは気をつけてねと電話を切りました。次の年の11月、私は海外生活を終え日本へ帰国したのですが、すぐに短期間のチュニジア旅行へ発ちました。地方を回り、帰国前に定宿としていたチュニスのホテルに落ち着き、テレビを付けたままの部屋へシャワールームから出てみると、イラクで日本の外交官2名が殺害され遺体が成田空港へ到着したニュースを流していて、もしかするとと思いながら観ていると、やはりその内の1人が井ノ上さんだったのです。彼は外交官以前に、シリアやアラブ人を愛していたアラビストだったので、その彼の死が私のアラブでの撮影を続ける決心をさせました。彼のような人物が外務省内に増えると、対中東政策をはじめ対外政策にもっと良い影響を与えることができるのでしょうが。彼等の死はテロリストによるものと発表されましたが、真実は未だに謎なのです。まず、テロリストによるものだとすれば、犯人は必ず犯行声明を出すのですが、成されていません。先日、初めて井ノ上さんをインターネットで検索しましたが、その事件の真相が闇に葬られたという記事がいくつも掲載されています。
長い文章になってしまいましたが、今回の写真は2002年のチュニジア、シリア、ヨルダン旅行のものです。
Tozeur, TUNISIA
チュニジア南部の玄関口であるトゥズールには、ヨーロッパの主要空港から直行便が飛んでいる。チュニスは人の格好も建物も近現代的であるが、地方の町や村は保守的で、多くの女性は頭から靴の部分まで布で覆われている。ここの旧市街は14世紀に建造された。この地で、私にとってアラブで最初の友人ができたが、とてもエキゾチックな街の雰囲気に魅かれ、いつかはここに住みたいとも思った。アカデミー賞を受賞した映画「イングリッシュ ペイシェント」の撮影場所として使われたこともある。
Sidi Bou Said, TUNISIA
チュニスから僅か1時間以内で行けるシディ・ブ・サイードは、チュニジアン・ブルーの窓や扉と白壁で統一された町並みで有名な観光地。ここの住人はお金持ちが多く、この写真にあるように多くのヨットやクルーザーが停泊している。
Damascus, SYRIA
ダマスカスのホテルに落ち着いた後、シリアで最初に撮った写真がこれ。雑居ビルに掛かる多くのサインに驚き、シャッターを切った。井ノ上さんの勧めで訪れたシリアだが、ダマスカスに着いた時の第一印象は、道路も建物も見るもの全てが薄汚れていて、何て汚らしい所へ来たのだと思った。その印象が見る見る内に変化し、私がそれまでに訪れた都市の中で一番好きになった。4,000年もの歴史ある町、深みがある。
Aleppo, SYRIA
ダマスカスに次ぐシリア第二の都市であるアレッポの中心部。商業都市であり、多くのキリスト教会が建っている。
Amman, JORDAN
ヨルダンの首都であるアンマンの中心地。この男性はペストキルの仕事を待っているのか。
Jabal Nebo, JORDAN
ネボ山、ここはモーゼ終焉の地といわれている。この向うには死海を挟んでイスラエルが見える。近くには古い小さな教会が建っている。
私が海外生活をおくっていた国は小国だったため現地に日本大使館はなく、在ケニア日本大使館が管轄していました。現地在住の日本人が私一人だった時期もあり、私は大使館と情報交換等で時々連絡を取り合っていて、大使館の担当書記官からたまにはナイロビへ来て下さいよといわれていました。そんなわけで、初めてのアラブ旅行の帰路、大使館に立ち寄ろうと予定していたのですが、日時を連絡していなかったため、在チュニジア大使館から連絡を入れてもらおうとその大使館を訪れました。そこで初めて会ったのが井ノ上正盛さんというまだ20歳代後半の若い書記官でした。彼は外務省へ入省後、3年間シリアでアラビア語を学び、シリアをこよなく愛していた人で、私が撮影旅行中だと分かると、シリアでの楽しかった生活を思い出したかのように目を細めて、「シリアはいい所ですよ。是非、行って下さい。」と勧めてくれました。旅行から住んでいた国へ戻った後も、私の個人的な用件で彼と連絡を取り合っていたのですが、翌年、彼の勧め通り、チュニジア経由でシリア、ヨルダンへ旅立ち、チュニスで大使館へ連絡したところ、彼が急にヨルダン勤務になったと聞かされました。その時の目的地の一つがヨルダンだったので、アンマンに到着後、すぐ彼に電話すると、1週間後にイラクへ行くことになり、私に会いたいが忙しくて時間がないこと、また家族は帰国させようと考えていること等を話してくれました。それは2002年の秋でしたから、まだイラク戦争が始まる前でしたが、とにかく身体だけは気をつけてねと電話を切りました。次の年の11月、私は海外生活を終え日本へ帰国したのですが、すぐに短期間のチュニジア旅行へ発ちました。地方を回り、帰国前に定宿としていたチュニスのホテルに落ち着き、テレビを付けたままの部屋へシャワールームから出てみると、イラクで日本の外交官2名が殺害され遺体が成田空港へ到着したニュースを流していて、もしかするとと思いながら観ていると、やはりその内の1人が井ノ上さんだったのです。彼は外交官以前に、シリアやアラブ人を愛していたアラビストだったので、その彼の死が私のアラブでの撮影を続ける決心をさせました。彼のような人物が外務省内に増えると、対中東政策をはじめ対外政策にもっと良い影響を与えることができるのでしょうが。彼等の死はテロリストによるものと発表されましたが、真実は未だに謎なのです。まず、テロリストによるものだとすれば、犯人は必ず犯行声明を出すのですが、成されていません。先日、初めて井ノ上さんをインターネットで検索しましたが、その事件の真相が闇に葬られたという記事がいくつも掲載されています。
長い文章になってしまいましたが、今回の写真は2002年のチュニジア、シリア、ヨルダン旅行のものです。
Tozeur, TUNISIA
チュニジア南部の玄関口であるトゥズールには、ヨーロッパの主要空港から直行便が飛んでいる。チュニスは人の格好も建物も近現代的であるが、地方の町や村は保守的で、多くの女性は頭から靴の部分まで布で覆われている。ここの旧市街は14世紀に建造された。この地で、私にとってアラブで最初の友人ができたが、とてもエキゾチックな街の雰囲気に魅かれ、いつかはここに住みたいとも思った。アカデミー賞を受賞した映画「イングリッシュ ペイシェント」の撮影場所として使われたこともある。
Sidi Bou Said, TUNISIA
チュニスから僅か1時間以内で行けるシディ・ブ・サイードは、チュニジアン・ブルーの窓や扉と白壁で統一された町並みで有名な観光地。ここの住人はお金持ちが多く、この写真にあるように多くのヨットやクルーザーが停泊している。
Damascus, SYRIA
ダマスカスのホテルに落ち着いた後、シリアで最初に撮った写真がこれ。雑居ビルに掛かる多くのサインに驚き、シャッターを切った。井ノ上さんの勧めで訪れたシリアだが、ダマスカスに着いた時の第一印象は、道路も建物も見るもの全てが薄汚れていて、何て汚らしい所へ来たのだと思った。その印象が見る見る内に変化し、私がそれまでに訪れた都市の中で一番好きになった。4,000年もの歴史ある町、深みがある。
Aleppo, SYRIA
ダマスカスに次ぐシリア第二の都市であるアレッポの中心部。商業都市であり、多くのキリスト教会が建っている。
Amman, JORDAN
ヨルダンの首都であるアンマンの中心地。この男性はペストキルの仕事を待っているのか。
Jabal Nebo, JORDAN
ネボ山、ここはモーゼ終焉の地といわれている。この向うには死海を挟んでイスラエルが見える。近くには古い小さな教会が建っている。