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2015年12月1日火曜日

Arab as it is (素顔のアラブ) 23

今回も前回に引き続き、2006年に起こった第二次レバノン戦争の傷跡です。


                           south LEBANON
レバノンの抵抗組織であるヒズブッラーの横断幕には「This is your democracy USA」と書かれていた。どういった意味合いがあるかというと、アメリカはイスラエルが国際法を破ろうと全面的に支持し、この戦争で使用された弾薬のほとんどがアメリカ製で、レバノン人の多くに死傷者を出した。
第二次世界大戦が終結するまで、もの作りの卓越した才能や金儲けの上手さから疎まれ、特にヨーロッパで迫害を受けたユダヤ人が1948年にイスラエルという国を作った。誰からも迫害を受けたくないとの思いからユダヤ教徒のみの国作りを押し進めており、その結果として彼等の紛争が終わらないのだが、元々はユダヤ人も被害者であった。人間社会に何が最も悪い影響を与えているかといえば、武器製造だろう。近年の武器製造の目的は、自国防衛よりもそのビジネスが最も金を稼げる点にある。特にアメリカの政治に多大な影響を与えている軍産複合体等、戦争が起こらなければ大きなビジネスにはならない。日本の安倍政権も武器ビジネスを押し進める方針を決めたが、愚かな金銭欲が世界の危機を招いているのではないだろうか。


                           south LEBANON
写真右奥に数人のレバノン人の若者が座っているが、こちらの撮影中に話しかけられ、私達の国籍を聞かれた。私が日本人だと答えると、アメリカの友人だろうと言われ、私自身はそうではないと返答した。イラク戦争で小泉政権がイラクに自衛隊を送ったことで、それまで日本人に対して友好的だったアラブ人の態度に変化が現れた。フランス人の友人はフランスとヴェトナムのハーフであるため、フランス人だとは言わず、ヴェトナム人だと答えていた。第一次世界大戦後、イギリスとフランスの密約であった「サイクスピコ条約」によりアラブが分割され、レバノンがフランス領になった歴史がある。近年の中東の混乱は、その密約から始まったといっても過言ではない。この時の撮影中、逆に我々がビデオに撮られていた。


                         Bint Jbail, LEBANON
ビント・ジュベイルはイスラエルに近い南レバノンの町で、イスラエル軍はこの地からレバノンに地上軍を投入したため、一番激しい銃撃戦が行われた。


                            Tyre, LEBANON
南レバノンの町ティールの墓地では、この戦争で命を落とした多くのヒズブッラー兵士の墓が見られた。


                    Al-Khiam Detention Camp, LEBANON
2000年まで南レバノンの一部をイスラエルが占領していて、イスラエルと同盟関係にあった南レバノン軍(レバノン人キリスト教徒による民兵組織)が、この地をイスラエルに敵対する兵士の捕虜収容所として使っていた。イスラエル軍がこの地から撤退すると、多くの南レバノン軍の兵士はイスラエルに逃げ込んだという。その後、その収容所で捕虜がいかに酷い扱いを受けていたかを国際社会に見せるため、ヒズブッラーが収容所の博物館として利用していたが、この戦争でことごとく破壊された。


                        Fatima Gate, LEBANON
ここがレバノンとイスラエルが占領するゴラン高原のボーダーで、フェンスの向こう側がゴラン高原。第三次中東戦争後、イスラエルはシリア領であったゴラン高原を占領し、現在に至っている。その中のシェバ農場がレバノン領であるとの理由で、ヒズブッラーは取り返そうとイスラエルに戦いを挑む。国連はゴラン高原をイスラエル領であるとは認めていない。