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2015年12月30日水曜日

Arab as it is (素顔のアラブ) 24

今回も2006年のレバノンですが、ベイルートにあるパレスチナ人のシャティーラ難民キャンプの写真です。
1948年のイスラエル建国の際、パレスチナ人とされるアラブ人の多くがその地から追い出され、近隣のアラブ諸国に難民として住むようになりました。ただ、その難民を受け入れた国によって政策に差異があるため、待遇が違います。特にレバノンでは、パレスチナ難民は土地も持てない、多くの職業にも就けない等、とても待遇が悪いのです。レバノン政府からすれば、難民には将来的にパレスチナへ帰還してもらうことを願うため、定住してもらっては困るというのが理由です。そんなわけで、レバノン国内にあるパレスチナ難民キャンプはレバノン政府が所有する土地ではなく、レバノンの一般市民が提供した場所なのです。他方、隣国で現在混乱の激しいシリアは、アラブ諸国の中でも、パレスチナ人への待遇が最も良い国でした。
レバノンのパレスチナ難民キャンプは、当然のことながらパレスチナ難民が住むための場所でしたが、そこの物価が安いため、現在のシャティーラでは、レバノンの貧困層や出稼ぎに来ているアジアの人達が、住民の3分の1程の割合を占めています。


                          Beirut, LEBANON
レバノン国内のどのパレスチナ難民キャンプでも同じだが、建築物が計画的に作られていないため、この写真で見られる通り、電線が無秩序に絡まるように建物の外部に配されている。


                          Beirut, LEBANON
大雨が降ると、膝の高さまで浸水することがあるという。勿論衛生面で最悪な環境であり、地下に溜まった水を抜く作業が必要となる。


                          Beirut, LEBANON
キャンプ内の多くの壁に絵が描かれてあるが、特に政治的なものが多い。この絵は、イスラエル建国の1948年から第三次中東戦争があった1967年まで、多くのパレスチナ人の血が流され、難民になったことを意味しているのだろう。


                          Beirut, LEBANON
かつてパレスチナ人の英雄だったアラファトの写真は、多くの場所で見受けられる。


                          Beirut, LEBANON
レバノン内戦が終わるまで、この建物は病院で、私の友人も医師として働いていたという。その後は、アパートとして使用されているが、この写真を見ただけで、彼等の貧困の度合いが想像できるだろう。


                          Beirut, LEBANON
写真の真ん中に、元首相だったハリーリ親子の写真が掲げられているが、その先がシャティーラ難民キャンプになる。その手前には、かつてシャティーラと隣接したサブラ難民キャンプがあったのだが、1982年に起こったサブラ・シャティーラのパレスチナ人大虐殺の後、サブラ・キャンプは消滅した。その後、サブラにはオープンマーケットが展開されていて、売られている品の価格は、ベイルートの中心部と比べ半額から3分の1位の安さである。このバナナ売りは1500ポンドと大きく値札(10.ooではなく、アラビア語の数字で1500と読む)を掲げているが、それはUS$1と等価で、バナナの大きな1房がたったの120円程なのだ。